2016/01/14(木) 最弱無敗の神装機竜《バハムート》[リーズシャルテ・アティスマータ]というわけで
前記事から
第1話でヒロインが自分でスカートをめくってパンツ見せるアニメ繋がりで
最弱無敗のアティス。
いやぁ・・・みんなこのアニメを
「テンプレ」「テンプレ」「どこかで見た」「○Sじゃねーか」って散々言うけど
いやぁ・・・
そのとおりだなΣ(`・ω・´)これほど同じ展開が被るなんて、普通はそうそうないはずよ?
掴み:ヒロインにラキスケ(風呂に飛び込む・着替えを覗く・ぶつかりマウント乳揉み)
理事長や学園長に急に入学させられる男子一人だけ学園
掴みでラキスケられたヒロインが怒り心頭で入学反対、そして決闘して勝てたら入学許すという
そしてそのヒロインはどっかの姫や王女、学園でも1・2位を争う強者
そしてなぜか学園にすでにいる主人公(男)の妹、もちろんブラコンでハーレム要員
主人公は最初周囲から最弱認定されてるが、実は最強
そして決闘に勝つ、もしくは邪魔が入りヒロインを助ける、ヒロインデレデレ
ここまで全部第1話。この後はヒロインデレデレのままでヒロインどんどん増加のハーレム路線。
なんでここまでぴったり符合する展開になるのか?
――以下無駄にだいぶ長くなってしまったので格納。
――つづき
まあそれは編集からテンプレを渡されてるからだろう、という見方をする人が多いようだが
多分にその(担当)編集は、出版部の意向に従っているだけな気がする。
漫画のほうでは、むしろ同じ雑誌内で内容がだだ被りするのを避ける傾向が強いが
それも編集部が同じ内容の漫画を落としているからで、決して同じジャンルで
面白い漫画が生まれていないわけではないはず。
というのも漫画(週刊・月刊雑誌)では、連載はアンケート葉書の順位を基に
人気の無いものから連載打ち切りを言い渡すという旧態依然とした体制が大手を締めており
同じジャンル、似たような内容のものを連載した場合、必ず票が割れるとにらんでおり
票が割れるということはすなわち獲得票数が少なくなり、結果として連載期間が短くなるのを
懸念して同じジャンルの掲載を控えていることに繋がるわけです。
実験的に近い内容の作品を同時期に連載させることもあるが、そのほとんどは
どちらかが早めに打ち切り宣告をされて、もう一作品は人気が衰えるか
作品が満足いくまで描ききったら終了という形まで連載されていたりもする。
ほぼ当て馬、いや合わせ馬(互いに競わせて、完成度を高める方式)だが、必ず片方は
憂き目を見るあたり、やはり同じような作品を同時に連載することは、雑誌としてふさわしくない、
狙った読者層をより獲得するにふさわしくないと考えているようだ。
その一方、ラノベというものはほとんどが連載という形式を持たず、漫画でいうなれば1巻単位まで
原稿を溜め込み、一冊が出来上がってから初めて世に発表するという形をとっている。
つまり、漫画で言う
「同じ一冊の中に同じような作品が並んでいる」という状況が発生しないため
読者は一冊を購入し、その内容を読み終えるまで「あれ、このラノベどこかで読んだことあるな」と
認識できないのである。また文字主体の作品媒体の特徴として、
文字に書かれた内容を
読者が自由に想像の幅を広げることが可能であるという点が非常に大きい。
これは漫画やアニメでは表現不可能な、とても柔軟な作品を可能としているという他にならない。
たとえば「モンスターの大軍団」という一文があるとする。
漫画ならば、モンスターの軍団が絵で必ず表現され、どのような怪物なのか、どのくらいの規模
なのか、主人公側に対してどのような反応を取るのか、絵で表現してくれる。
さらにアニメなら、そこに動きと音が加わり、迫力や威力、速度などが目で見て
感じ取れるようになる。だがラノベならどうだろうか。
そのモンスターごとに、体の特徴や、移動するときの動き方、踏み荒らした森の木々、土の
荒れた様子。森から村までとどろくような音の詳細な描写に加え、村の人々の驚き慌てる
姿から、泣き叫ぶ子供、神に祈る老人の手を取って避難を促す嫁、武器を取り、モンスターが
村に入ってこないようにバリケードや防衛ラインを構築するため村の長老の下へ足を急く
父の背中を追う少年の姿。それを一つ一つ、すべての様子を頭から足まで、描写しきって
いたらきりがない。
そう、
ラノベには描写の省略が必要であり、描写の省略があるからこそ、ラノベには
想像を豊かに膨らませる余地がふんだんに含まれるのだ。
これはどういうことかというと、端的に言えば
「同じテンプレを使用して作られた作品」でも、
作家の個性により(省略される箇所、描写される箇所が微妙に異なるため)まったく違う作品に
感じる人が少なからずいる、ということである。
ラノベの作者によっては、モンスターの様子を細かく描写して、読者の恐怖感を煽る書き方を
する人もいれば、村でモンスターにおびえる少年少女のやりとりを深く掘り下げて
描写する人もいるだろう。はたまたモンスターの様子も、村の人々の様子も、ほとんどと
一行でばっさりと切り捨てて、次のページではすでに村が廃墟になり、そこには
少女の物であった荒い縫いかたをされたボロボロ小さな人型のぬいぐるみを拾い上げる
青年へと成長した主人公の姿を描く作家もいるだろう。
描くことと、省くことは漫画でもラノベでも、はたまたアニメでも共通の事柄だろう。
「抜かれたことを想像する」のは、どの作品形態でも読者の想像力により幅が異なるが
「描かれたことを想像する」のは、はっきりとラノベがその先鋭力を示しているだろう。
漫画やアニメでは、「見る」ことで情報が大きく伝わるが、
「見る」ことにおいての
脳での情報密度が高くなり、考えることでの情報補間をないがしろにしてしまう。
特にアニメではその補間の欠如が顕著だ。なにせやつは、
こちらが考える前に次のページに進んでしまい、
また新たな情報を絵、音、その両方で同時に伝えてくる。「あれ?さっきのってどうだったんだろう」と考えている間にも、次の場面は
どんどんと進んでいくので、人はいつしか考えることを止めてしまうのだ。
そして、ここで先に述べた
ラノベとアニメの相違点が如実に浮き彫りとなっていく。
そう、
ラノベは考えて読める体系の作品発表形式であるのに対し、
アニメは感受して読める体系の作品発表形式ということ。
十人十色。万人万色。人が違えば、考えも違う。それこそが人の特徴であり、
人が人足らしめる根源である。ラノベは考えて読むため、その
読者の個性が少なからず作品内に混入される。
同じ一文を読んでも、人により感じ方が違うように、作品も読む人により
少しずつ姿を変えるのだ。それが同じような内容のラノベ作品でも、片方だけが
圧倒的に売れ、片方だけがそうではないという状況を発生させにくい。
「同じようなのを見たからこれは要らない」と捨てるのではなく、
「こっちはどのように
違うのだろう」と差異点を探すように読むようになる。
そしてアニメは受身で見るため、見る人により作品のキャッチングポイントは
だいたい同じ箇所に収束していく。
ある人はアニメを見るのに「キャラの性格や見た目」を優先し、またある人は
「キャラ同士の相関関係」を重視するだろう。そしてまたある人は
「物語の主たる目的に向けての動かし方」を見たりする。そして今回のこのアニメで
一部を(また)騒がせている「テンプレ騒動」は、アニメをメイン脚本で見る層だ。
書く言う私も最近はその傾向が強い気がするが、
アニメを「見る」ことで「受け取った」印象が、以前に見たアニメを同じだと
「以前にみたアニメと同じところ」を探すようになる。いわゆる粗探しだ。
そして粗が見つかるほどに、
相違点を探すことより
相似点を持ち上げ嘲笑を上げるようになる。
少し長くなってしまった。そろそろまとめよう。
下腹部の文様見せるのにスカートめくらなくていいだろ!
いやその前に文様見せなくていいじゃん!
この痴女!!ちゅじょ!!!変態女郎!!!!いいぞもっとやれ以上。
アニメ製作ご苦労様です(´・ω・`)毎週楽しみに見ています。
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こうですか!わかりますん!
音(生音)を入れると当時はめっちゃ容量食いすぎるわー死ぬわー
ってなんか聞いたことあったわぁ。
ガラスのグラスをパシャーンと落として割る音がスーファミカセット1個分くらい食うとか。
今はmp3をメインに圧縮効率高いですけど昔はキツかったんだろうなぁ。
メディア一枚で1メガ2メガバイトの世界だったとか信じられんですわい。
今では瞬きしてる間にデータ転送が完了してるとか。
技術の進歩って怖い。
でもいまだに雨の日には江戸時代から変わらぬ傘を差してる不思議。